宮崎県綾町の照葉樹林
奥多摩の水源林は「伐るものじゃない」が「原計画」で、これは計画屋といっても、たかが負け戦の戦時計画屋ごときとはモノが違う、明治の俊英や、もっとモトを辿れば「徳川幕府三百年」を Plan した智恵伊豆こと松平信綱の「原計画」に、ちょっとバカ殿っぽいところもあるけど、理屈は得意なミノベさん口説いて復帰した、という、まあオーソドックスな「伐らない」なのですが、綾の照葉樹林を伐らない、は、だいぶ話が違います。
照葉樹林は暖帯日本の極相林で、「自然のまま」なら、いつかはこの相に戻る、その意味ではありふれたものなのですが、普通は標高五百メータ、屋久島あたりで千メータ近くまで、の古来「自然破壊者」のウヨウヨしているところの林ですから、なかなか「自然のまま」はあり得ない。鎮守の森、のように「標本」として残っていたり、島嶼部のようなそう簡単に自然破壊者が移動できないところ、とかに原生に近い形で残っている、に過ぎません。昭和天皇の御製の
「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」
で有名な神島は、その稀有な例だったのですが、 ドブネズミに荒らされて半壊滅状態と言われます。一番残っているところは、本州では那智原生林、島嶼部では対馬の龍良(たてら)山原始林でしょうか。綾町の照葉樹林は、原生とはほど遠い、戦前までは炭焼きの盛んなところだったようですし、高く売れる樹種は抜き伐りもしてるし、焼畑もやってたんじゃないか、という、ありふれた「被侵略地」の回復遷移相ですが「照葉樹林による町起こし」計画 = 「伐らない計画」が始まって四十年近く経つので「なんちゃって照葉樹林」もなかなか格好が付いてきました。
綾町には、郷田実さんという、変わり者(?)の町長さんがいて、自前の照葉樹リッチな町有林はばっさり伐ってしまって、次に国有林の皆伐が始まろうとしたとき、それはやめてくれ、と猛然と反対運動を起こしたのが 1967年です。中尾佐助先生なんかが、「照葉樹林文化」論を言い始めたころですが、本になったのは 69年ですし、「伐らない」= 山仕事がなくなる、なのに、「照葉樹林を残すことが町起こしになる」を自分は伐っておいて通してしまうのはスゴイ人です。ただ、南九州の 500m 以下のところまで、皆伐してスギ林に、は、飫肥のような伝統のあるところはよいとして、「照葉樹林の残骸」が優勢なところではよほど丁寧に照葉樹の刈り払いをやらないとまともには育たないのですから、中央の計画屋さんに言われてイヤイヤやっていた現場にしてみれば、反対運動はワタリに 船、もあったのかも知れず、綾町は手を付けないことになってしまう。
「照葉樹林を町起こしに」は、そう簡単ではないのですが、「吊り橋」を作ったり、有機栽培野菜と組み合わせたり、で奮闘しているウチに、アリフレタ遷移相、も、適地ですから成長が早い。世の中、自然保護とか照葉樹林とかがフツーになって、別に綾町じゃないといけないということはないのですが、世間より三十年早く言い出した強みで、相手は自然ですからその成長ペースがモノを言って照葉樹林はいわば綾町の独占事業です。観光、が軌道に乗るのは、宮崎県きっての大企業、 雲海酒造を口説いて「酒泉の杜」が開設された頃からかと思いますし、雲海さんのマーケティング (サントリーさんを筆頭に酒屋さんはマーティング勝負で、とても IT 屋ごとき、や、まして「行政」の及ぶところではない) が町起こしの成功の大きな力になっているのでしょう。
照葉樹林、は、南方熊楠といい、この町長さんといい、ちょっと正体不明(南方熊楠は、純生態学者としてはとてもエライ人ですが) の人物、と妙に似合うところがあります。
( 1 23 2006, 08:35:55 午前 JST ) Permalink
Comments:
Post a Comment:
Comments are closed for this entry.

